福島県二本松市にある『浄土真宗本願寺派 塩松山 顕法寺』の公式ホームページ

顕法寺

顕法寺について

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史跡

(1)加藤明利公墓所

加藤明利は、慶長四年(1599年)伊予国松山(現・愛媛県松山市)に加藤嘉明の次男として生まれました。
その後、二代将軍徳川秀忠に仕え、扶持米千俵を給され、元和二年(1616年)に従五位下民部少輔に叙任されています。

父の嘉明は、賤ヶ岳の戦いに「七本槍」の一人として活躍した戦国武将です。後に伊予松山二十万石の城主となっています。松山城築城直後の寛永四年(1672年)二月、蒲生氏に代わって会津四十万石の領主として入部しました。入部直後の三月、嘉明は、女婿である松下重綱に二本松五万石を、明利公には三春三万石を支配させました。同年十月に重綱が亡くなったため、翌年一月にその子長綱を三春に移し、明利公には、二本松三万石を与えました。

明利公は、二本松城着任後すぐに、山の半ば以上を城郭として、本丸、一の丸、二の丸を整備しました。
さらにその山腹を切り開いて郭内と称し、重臣の屋敷を設けるなど、蒲生氏時代の城郭を拡張、改修しました。

明利公は、二本松城主として十三年の長期にわたり統治し、寛永十八年(1641年)三月二十五日に四十三歳をもって亡くなりました。

法名は「宝樹院殿雲心夢大禅定門」であり、当顕法寺に立派な位牌が安置されています。

加藤明利公墓所
加藤明利公墓所

加藤明利公墓所参道1
加藤明利公墓所参道1

加藤明利公墓所参道2
加藤明利公墓所参道2

(2)服部宇之吉博士顕彰碑

中国哲学の世界的権威者、服部宇之吉博士は、慶応三年(1867年)四月三十日に二本松藩士の服部藤八の三男として生まれました。母の病没、父の戊辰戦争戦死により、弟夫婦が服部宇之吉博士を養育しました。

明治二十三年(1890年)東京帝国大学哲学科を卒業し、明治三十二年に同大助教授となり、清国とドイツに留学しました。同三十五年同大教授に就任直後、清国政府の要請で北京大学主任教授となり、清国教育界発展に貢献しました。大正四年(1915年)米国ハーバード大学教授に就任しました。帰国後、東京帝国大学文学部長に就任し、同十年、東宮職御用掛を拝命しました。御講書始では、天皇陛下への漢書御進講の栄に再三浴しました。服部宇之吉博士は、中国の礼思想の理論的体系化に尽力したり戒石銘研究の基本「旧二本松藩戒石銘説明書」を詳述したりしました。昭和十四年(1939年)7月11日に七十二歳をもって亡くなりました。東京護国寺にお墓があります。顕法寺は、服部家の菩提寺になっています。

服部宇之吉博士顕彰碑
服部宇之吉博士顕彰碑

服部家墓所
服部家墓所

(3)二本松少年隊 田中三治の墓

江戸時代から明治時代へと移り代わる時代の中で戊辰戦争が起こりました。二本松藩は、東軍に属しました。そして、薩摩・長州率いる西軍に徹底抗戦の構えを取ります。しかし、西軍は、近代的な戦力を持ち、奥州に攻め入ってきました。

奥州の諸藩は、奥羽列藩同盟を結び抵抗しましたが、西軍の戦力を前に同盟諸藩は次々に降伏してしまいます。

その中でも二本松藩は最後まで戦い抜く姿勢を崩しませんでした。そして、慶応四年(1868年)、藩の成人年齢を「十五歳」にまで引き下げました。これにより十五歳以上の男子が出陣することが認められました。二本松藩には昔から「入れ年」と呼ばれる習慣があり、年齢を二歳さばを読むことが黙認されていました。そのため、この時も入れ年で「十三歳」以上の男子が出陣を許可されることになったのです。こうして出陣した十三歳以上、十七歳以下の少年たちを「二本松少年隊」といいます。

田中三治は、田中昇蔵(奥書役)の弟です。樽井弥五左衛門隊に属し、慶応四年(1868年)七月二十七日、糠沢村(福島県本宮市糠沢)上ノ内の民家に宿陣しているところを薩摩藩軍に襲われて戦死しました。十六歳の短い命でした。顕法寺は、田中家の菩提寺になっています。

田中三治墓所
田中三治墓所

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